日曜日のくしゃみ



 Sneeze on Monday,sneeze for danger;
 Sneeze on Tuesday,kiss a stranger;
 Sneeze on Wedenesday,get a letter;
 Sneeze on Thursday,something better;
 Sneeze on Friday,sneeze for sorrow;
 Sneeze on Saturday,see your sweetheart tomorrow.

              ──マザー・グースより

 日曜日、いつもの喫茶店で待ち合わせをした。古本屋の隣の喫茶店だ。約束の時間を二時間過ぎていた。焦りながら、地下への階段をおりて、ドアを開ける。薄暗くて狭い店の中、絵美はいつもの奥の席で文庫本を読んでいた。彼女のほかに、客はいない。店のラジオからはFM放送が流れている。
「ごめん。午前中、急な仕事が──」
 用意しておいた台詞は、大きなくしゃみと鼻水で途切れた。また花粉症の季節がやってきたらしい。
「──はいっちゃって」
「いいよ。気にしてないから」
 絵美が文庫本を置いた。マスターにホットをひとつ注文してから、おれが鼻をかもうとポケットをさぐっていると、彼女はテレクラのちらしいりのポケットテイッシュを黙って差し出した。もらって、鼻をかむ。そういえばついさっきまで一緒にいた女も同じものを持っていたような気がする。珍しくグリーンで大きく印刷された電話番号が妙に印象に残っている。
 急に、あの女の残り香が気になった。鼻が効かなくなっているので分からないだけに、少しそわそわした気分になった。時間がなかったので、念入りにシャワーを浴びなかった、ということも思い出した。
 おれが煙草に火をつけると、絵美も同じように自分の革ジャンのポケットから煙草を出して火をつけた。相変わらずの強い両切り煙草の銘柄が彼女には不思議と似合った。小さいライブハウスでベースをひきながら、もくもく吸っているのも何度かみたことがある。
「煙草、変えたんだ」
 肺に溜めた煙をゆっくりと吐きながら絵美が言った。
「ん? ああ、禁煙しようと──」
 また、くしゃみが出た。鼻をかみながら続ける。
「──思って。軽いのにかえた」
「一九九五」
「え?」
 絵美は、たまにわけのわからないことを口にする。そのあたりが変に魅力的でもあった。もうかなり前からの付き合いだ。たまたま連れにつれられて行ったライブで知り合った。こういう女はいつも一緒にいると疲れるだろうが、たまに会って身体を重ねるぐらいならちょうどいい。見た目は、はたち前後に見える女だが、正確な歳は教えてくれたことがないし、聞かない約束をしていた。そのあたり、謎めいている。たまにきまぐれでこっちがなんとなく歳を聞いても、笑ってごまかすだけだ。ひょっとすると、見た目より意外に幼いのかもしれない。
「ごめん。ちょっと飛んじゃってる。どうもここんとこハイでさ。今年って、一九九五年だよね、って言いたかったんだけど」
「おい、それちょっと話飛びすぎてるぜ。脈絡がないもの。何かクスリでもやってるんじゃないだろうなあ」
 笑いながら冗談を言うと、絵美はただ笑って灰皿で煙草の火を消した。そして、おれが吸っている煙草を指さす。
「それ、こないだ出た新しいやつ?」
「そうだよ」
「どう?」
「不味いね。いちばん軽いけど」
 もっと身体、気をつけなさいよ、と、あの女に薦められた煙草だった。少し気まずい感じがしたので、煙草を消しながら話題を変えた。
「何読んでた?」
 絵美の前に置かれた文庫本にはカバーがかかっている。
 マスターがホットを持ってきた。黙って灰皿を新しいのと交換しながら、テーブルの上に伝票を置く。
「漫画だよ。ふじもと弘司」
 漫画はあまり読まないが、この人の名ぐらいならおれだって知っている。児童漫画の大御所の名だった。相変わらず、変わったものを読む女だ。かというと、堅い本も読んだりする。このあいだは、寺田なんとかという奴の、いかにも堅そうな本を読みながら、この人、いい人だったよね、とひとりごとを言っていた。
「それ、子供向けの漫画だろ。おまえ、何歳になったと思ってるん──」
 またくしゃみ。うっとうしくてかたがない。
「──だよ」
 わざどおかしい表情で鼻をかんでみせると、絵美は笑った。
「この人、そうじゃないのも描いてるよ。これなんかけっこう面白いSFだし。貸そうか」
「じゃ、借りとくよ」
 いい歳して、宇宙人だのなんだののくだらないSFを読む気にはならなかったが、女っていうものは、こういう細かいところでご機嫌をとっておかないといけない、ということをおれは知っている。
 またくしゃみが出た。今度は、三連発の後にもう一回だ。これはかなりつらい。涙まで出てきた。
「花粉症?」
「もうだいぶ慣れたよ」
「去年からだっけ」
「ああ。急にくるからなあ。杉の花粉症。うちの親も、二年ぐらい前から急にきた」
「そのうちみんなくるかもね。感謝しなよ、杉の木に」
 またわけのわからないことを言い出した。この女、ほんとうに覚醒剤でもやってるんじゃないか、とおれは真剣に思った。
「おい、またおかしいこと言い出してるぞ。大丈夫だろうな」
「そんなことないよ」
「いや、そうだ」
 絵美がふくれっつらをした。
「だって、くしゃみとか鼻とか咳とかって、身体に必要だぞ。意外に大切にされてる、ってことなんだ」
 よく分からなかったので、しばらく黙っていた。
「分かるよ、それ」
 言いながら、おれはもう一本、煙草に火をつけようとしたが、突然のくしゃみでライターの火が消えてしまった。もういちど点けようとするが、火が点かない。百円ライターは、ちょうどガス切れだった。
「あ。ごめん。火、かしてくれる」
 おれがそう言っても、絵美は俺の手をじっと見つめながら、何かを考えているかのように、ただ黙っているだけだった。
「どうした?」
 おれがそう言うと、やっと絵美が顔を上げた。気のせいか、悲しそうな表情だった。
「数えてたんだ」
「数える?」
「そう、カウントしてた。はじめて出会ってから今まで、ずっと。一九九七、一九九八……今ので、ゼロ、だ。さよなら」
 急に絵美が伝票をひっつかんで立ち上がった。「つけといて」マスターは何も言わなかった。そのまま、彼女は店のドアへと歩き出す。
「おい、待てよ!」
 絵美がこちらを振り返った。「おまえ、あたしにとって意外に必要だったんだぜ」今まで見せたことのない眼でおれをみつめていた。「でもあたしはあいつらほどやさしくないんだ」
 あいつら? 彼女が何を言っているのか、おれにはまったく分からなかった。ラジオのリクエスト番組からは、ゴーバンズの昔のヒット曲が場違いな感じで流れていた。テーブルの上には、彼女が読んでいた文庫本が残されている。閉じられたドアを見ながら、そういえばさっきのは何回目のくしゃみだったのだろう、とおれは思った。

【おしまい】

一九九五年三月一七日(〜一九九七年九月一六日)

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