青空



「そこにいるの、だれ?」
 目を覚ました少女がベッドから上半身を起こしてそう言ったとき、死神は少なからず驚いた。そして、自分が死神であるということを思い出し、驚きの感情を無理やり押さえ込んだ。死神というものは、感情を持ってはいけない、ということになっている。
 生者に気配を悟られたことは確か前にもあったはずだが、そのことについてはよく覚えていない。あれは、三〇年、いや五〇年ぐらい前のことだったろうか? 前のときも、今回と同じく相手は盲目の子供だったように思う。こういう子供は目が見えないだけ、その他の感覚が鋭い。それに加え、死期が近づいているので敏感になっている。だからやりにくい。
 死神は黙って病室を去ろうとした。
 と言っても、死を与えるのをやめたわけではない。寿命というのは絶対だ。やりにくい相手は後回しにする、というだけのことだ。ここの仕事は、今日中に終えればいい。まだ朝だから他の仕事を片づけてから戻ってくる。
「いかないで」
 ぼろきれをまとった身体と巨大な鎌がドアをすり抜けて半分廊下に出たとき、背後からその声がかけられた。思わず振り返ってしまった。そう、前のときもこれで失敗したのではなかったか? 振り向くべきではなかったのだ。
 少女の見えない目が死神を見つめていた。
 死神は、眼前の少女が末期の白血病だということをその瞬間に知った。相手の目を覗いた瞬間に知ったのだった。不用意に知るのが嫌で、一旦退散してから態勢を整えて出直すつもりだったのだが、どうやらもう遅いようだ。この少女は、本日中に激しく吐血し、苦しみながら死ぬ。時間を引き延ばせば引き延ばすほど、ひどい苦しみのうちに死ぬことになる。早いうちに死を与えれば苦しみは少ない。そこまで知った。知ってしまった。
 部屋を去りかけていた死神の気が変わった。この仕事は今のうちに片づけることにする。べつに、少女を気の毒に思ったからではない。気の毒などという感情は持ってはならないのだ。予定の順番通りに仕事を片づけることにした、ということだ。そう、そういうことだ。
 引き返して枕元に近づいた。少女の顔色が明るくなる。目は見えないが気配を察したのだ。
「よかった。たいくつしてたの」
 少女が布団をはねのけて起き上がろうとする。身体を動かせばそれだけ生命力を削ることになる。最後の苦しみも大きくなる。
「待て!」
 つい口から出てしまった。前のときも似たような失敗をしたのではなかったか? こんなことばかりしているからいつまでたっても下級天使になれないのだ、という考えがふと頭をよぎる。
「なにをまつの?」
 もう黙っていようが喋ろうが同じだった。死神は腹を据えた。
「おとなしくしていろ、ということだ」
「どうして?」
「身体に悪い」
「いいもん。これいじょう悪くならないもん」
 そうは言いながらも少女はふたたびベッドに横になった。起きているのがつらいのだ。
「ねえ、あなた、誰なの」
「死神」
 嘘はつけない。嘘をつけば神でなくなる。神でなくなってしまった死神がその後どうなってしまうのか、ということについては真剣に考えたことがなかったが、あまりいい結果にはならないだろうということは彼にも想像がついていた。だからほんとうのところを言わねばならなかった。
「あはっ。おもしろいひと!」
 干からびた脳髄に楔が打ち込まれた。然るべき和音の鍵盤が叩かれた。少女のその反応が死神の記憶を叩き起こした。急速に情景が浮かび上がる。思い出した。五〇年前だ。同じ台詞を聞いた。あの戦争の後だ。新規の死神が大量に投入されねばならないほど忙しかった。瓦礫の山。見渡す限りの焼け野原。それらに不釣り合いなほど透明だった青空。盲目の娘がそこに居た。餓死寸前のその娘は死神にこう言った。「おもしろいひと」
 自分自身は、ふと気付いたら死神だった。その前の記憶はない。どう思い出しても、あの時点では刈った魂はまだ三桁に達していないはずだった。たぶん自分もあのときの戦争のせいで造られねばならなかった新規の死神だったのだろう、と彼はぼんやり結論づけていた。あれから五〇年、彼は魂を狩りつづけた。
「どうしたの、だまりこんで」
 病室の少女が言った。焼け野原の娘が言った。ああ、そうだ、このことは思い出したくないから思い出せないようにしていたのだ。
 トタン屋根の残骸の上に横たわった娘は、死の寸前の混濁した意識で言った。
「ああ、いいお天気。ねむくなってきちゃった」
 黙って死神が鎌を振り上げた。燦々と照る陽光を反射し、どす黒い鎌が鈍く輝いた。
「ねえ、今、空は青いかなあ? こんなにぽかぽかいいお天気なのだもの。きっと真っ青な空だわ。ねえ、そうでしょ?」
 空は限りなく青かった。だのに死神は答えなかった。黙って鎌を振り下ろした。
 孤独に魂を狩りつづける自分の存在を知ってくれた初めての相手、その彼女が発した最後の質問なのに答えてやらなかった。そしてしばらくそのことを後悔し続け、ついにその記憶を封じることにしたのだった。こういう思い出は、不要だ。感情というものは死神には邪魔だ。
「ねえってば!」
 すねるような声が死神を病院に引き戻した。
「ああ……すまない。聞いていなかった」
「んもう。あのね、あなた、あたらしいお医者さんでしょ、って言ったのよ。ねえ、そうなんでしょ?」
「いいや、違う」
「えーっ、でもおなじにおいがするわ」
「どんな匂い」
「うんとね、におうっていうより、感じるの。消毒のにおいってあるでしょ。ああいうのじゃなくって、むねのあたりで感じるにおいなの。なんのにおいなんだろう、って、ずっとふしぎにおもってたの」
 そいつは死の匂いだ。そう答えかけてやめた。言う必要はない。
 死神が黙ったままでいると、少女は大きな溜め息をひとつついてから目を閉じた。
「……ねえ、せんせい、あたし、いつになったら退院できるのかなあ」
 死神のことを、すっかり医者だと思っている。敢えてそのままにしておこうと死神は思った。べつに自分が嘘をついているわけではない。自分は死神だとはっきり言った。勘違いするかどうかは相手の勝手だ。
「さあな」
「おうちに帰ったらハイキングに行きたいな。晴れた日にね、おとうさんとおかあさんと、山のぼりするの。こんどは落っこちないように気をつけなくっちゃ」
「今度は?」
「うん。前はね、がけの向こうがどうなってるかちょっとのぞいてみたくて、落っこちちゃったの。だからハインキングはそこでおしまい。気がついたら病院のなかにいて、めがみえなくなってた。……あっ! そうだわ!」
 死神が止める暇もなく、少女は飛び起きた。ベッドの脇の小さな箪笥の引出しを開け、手探りで何かを取り出す。動作にためらいがなかった。何度も何度もその引出しからその物を取り出していたに違いない。少女の手に握られていたのは、一枚の写真だった。それを死神のほうに差し出す。死神は手だけ実体化してそれを受け取った。
「これ、そのときの写真」
 写真には少女の父と思われる人物が少女といっしょに写っていた。たぶん母親がシャッターを切ったのだろう。素晴らしい青空を背景に、ふたりとも笑っていた。この後、少女は崖から落ちて光を失ったのだ。
「ね、とってもきれいな空でしょ。もういちど見てみたいなあ、こんな空」
 少女が写真を返してもらおうと小さな手を差し出す。死神が写真を持った手をのばした。写真を受け取るつもりだった少女の手が、うっかり死神の手に触れた。少女が、びくっ、と手を引っ込める。写真が床にゆっくりと舞い落ちる。しまった、と死神が舌打ちする。実体化した死神の手は、骨だ。
「……その、手……」
 潮時だ。騒がれてはまずい。死神が鎌を振り上げかける。そしてその手は途中で止まった。
 少女は叫ぼうともしなかったし、パニックにも陥らなかった。ただ、静かにベッドの脇の円形の椅子に腰掛けた。だから死神の手が止まった。
「しにがみって、うそじゃなかったのね」
「そうだ」
「前に、となりのへやのひとが死んだとき、かんじたことがあるの。お医者さんがひとり多かったような気がして。気のせいだと思ってたけど、あなただったのね」
「それはわたしではない。別の死神だ。死神は何人もいる」
「あたし、死ぬの?」
「そうだ」
「いつ?」
「今日」
「ぜったいに?」
 間があいた。
「絶対だ」
 椅子から立ち上がろうとした少女がよろめいた。肉体的に既に限界にきているのだ。死神が全身実体化し、小さな身体を抱き抱えるように支える。手を貸すのはほんとうは規則違反だが、そんなものは糞食らえだ。
 少女が窓の方に歩きだした。死神はずっと付き添った。そして、窓を開けようとした少女を手伝ってやった。
 開けられた窓から少女が身を乗り出した。
 少女は空を仰いだ。空は、どんよりと曇っていた。今にも雨が降りそうだ。
「しにがみさん、今日はいいお天気?」
 この子が何を聞きたいのか、死神にはよく分かっていた。だから答えた。ためらいはなかった。
「ああ、いい天気だ」
 答えた瞬間、自分の中で、何かがプツンと切れる音がしたような気がした。ぞっとする感じの音だった。だがそんなことよりも、雨が降っていなくてよかった、と死神は心の底から思った。雨が降っていると、その音で嘘がばれてしまう。
「空はどんなかんじ?」
「真っ青だ。さっきの写真と同じぐらい、いい青空だ」
 空の色は灰色だった。だが死神の眼は、五〇年前の青空をはっきりと見ていた。
「よかった。ありがとう」
「もういいか」
「うん」
 少女は微笑んだ。死神は鎌を振り上げた。
 嘘をついてしまった。これで自分はもうおしまいだろう。もちろん後悔は微塵もしていない。胸につっかえていたものが最後に取れた。これでよかったのだ。
 彼は優しく鎌を振り下ろした。

「予報、見事に外れましたねえ」
 気象庁の分析室で男が先輩に言った。
「ああ。だがな、どう転んでもあの状態から晴れるはずがないんだよ。それが晴れちまった。快晴だ。雲ひとつありゃしない! ちくしょう、また室長の小言だぜ」
「資料見ると、何十年かに一度ぐらい、こういうことがあるみたいですけど、不思議ですね。原因は何でしょうか」
「知るかそんなもん」
 新たな天使が誕生する日は必ず青空という大切な決まりがあるのだが、そのことを知っている人間は、気象庁はもちろんのこと、この世にはひとりもいない。

【おしまい】

一九九三年四月七日〜一九九三年四月二六日

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