ART

 


  魔術とは、魔術師の意志に従って、変化をもたらす業である。
                ――アレイスター・クロウリー


 危険物が増えてきたので、処理することにした。こういうものは、放っておくとどんどん増えてゆくので、ナップザック一杯分ぐらいになったら整理する、と竹彦はずいぶん前から決めている。あまり増えてからまとめて処分すると、思わぬところから勘づかれることがあるからだ。じっさい、以前、竹彦が二度一緒に仕事をしたことのある男は、事後にそれが元で相手の縁者にカウンターされ、二年ほど前からアジアに逃亡している。その時は菱川重工専属のアーティストに主宅を奇襲されたのだから、命があっただけ幸運だった。世の中には不思議な才能の持ち主がいるもので、その誰かが、市場に流れた中古危険物のちょっとしたかたよりを分析し、菱川役員のうちひとりを木っ端微塵にした人物を特定したらしい。――とかく用心するにこしたことはない、という教訓だ。
 午後二時、竹彦はアパートを出た。晴れてはいるが、風が強い。春はまだまだ先だった。そのまま徒歩で最寄りの地下鉄の駅まで行き、売店で新聞を買う。常磐製菓の株価一〇の位が偶数、神田建設の一〇の位が六だったので、上り方向に六つ先の駅まで電車に乗った。地上に出てから三〇分ほど歩いた場所で電話ボックスを探し、〈葬儀屋〉の連絡先に電話をかけた。いつも通りの留守電に、「一四二、〇二五、〇〇三、〇一七、〇六六」と吹き込み、復唱してから電話を切る。普通危険物、竹彦、連絡時間、接触時間、という意味のコードで、三番目の数字は囮だ。
 すぐにまた地下鉄に乗り、アパートに戻る。ナップザックに危険物を詰め、準備を終えた。ザックは、若者に人気があるブランド物で、竹彦ぐらいの年齢の人間なら背負って歩いても違和感はない。危険物は、思った通りザックの半分ぐらいの量だった。
 午後八時ちょうどに竹彦の携帯が鳴った。
「一四二、〇二五」
 電話をかけてきた男が言う。「もしもし」と相手が言わなかったので、竹彦はそのまま普通に話を進めた。「もしもし」と言っていたら、それは何か不都合が相手側に起きている、ということになるので、その後の会話で使われる符牒によってはすぐに地下に潜らなければならない。
「〇〇三、〇一七、〇六六」
 竹彦がコードの続きを言う。
「まいど。いいよ。〇〇八」
「〇〇八。いいです」
 竹彦が復唱する。鶴頭公園横、という意味だ。最初の電話で接触場所を指定しなかったので、その点は相手におまかせ、ということになる。はじめから場所を決めてしまうと、それが万一敵対者に漏れ、なおかつコードまで割れてしまっていたときに、対応を練られる時間的余裕が大きくなってしまう。考え方にもよるが、そういう訳で、竹彦はたいていその部分は相手にまかせることにしている。
「OK。じゃあ、また」
 それから約一時間後、最初の電話をかけてからちょうど六時間経ったとき、鶴頭公園に隣接した南北に走る道路の路肩を竹彦は歩いていた。裏通りなので、車はほとんど走っていない。前方から、角を曲がって、小さめの白いバンが近づいてくる。バンは、竹彦の一〇メートルほど前方で止まった。ドアが開く。竹彦は、すぐに車の後部に乗り込んだ。
 車内には〈葬儀屋〉が居た。
 車の前部と後部とは完全に仕切られており、後部から運転席は見えないようになっている。前部には、最低でも運転手がひとり乗っているのを乗車前に竹彦は確認している。
 荷台の床に胡座をかいている〈葬儀屋〉の前に竹彦が座ると、バンが発車した。竹彦が〈葬儀屋〉にザックを手渡す。
「まいど。いつも通り、中古で流せるのは流す、ってことで」
「どうぞ。差額は現金で」
 くたくたになった安物のジャケットを着た〈葬儀屋〉は、ちょっと見ただけでは、日曜に犬の散歩でもしているような、四〇過ぎの小男にしか見えない。ごつい手が、ナップザックから次々と危険物を取り出した。
「二二口径リボルバーが三、九ミリ自動式が一。こりゃ凄いな。この九ミリ、ほんとに売ってくれるの」
「俺、大きいの苦手だから」
「あ、そう。それじゃこっちも勉強させてもらおうかな。後は、二二口径の空薬莢が七、と」
 そう言いながらも〈葬儀屋〉は、以前竹彦と取り引きしてから今日までの間で、九ミリを使った仕事がどこかでなかったかどうか、頭の中の膨大な情報を検索しているはずだ。もしそれがただ一件だったら、それは竹彦の仕事である可能性が高い。
「紙袋の中は、使えないやつかな」
「ええ。『完全に処分』してください」
 完全に、というのは、中古として流さないように、ということだ。紙袋の中には、黒の目出し帽が三つ、防刃手袋が三組、注射器が一本、空のアンプルが二本、入っていた。帽子と手袋は、相手の血痕がついていたし、竹彦自身の体毛も付着しているはずだ。注射器は、相手の血液が出る可能性がある。使ったのは自白剤だ。
〈葬儀屋〉は大きな電卓を取り出した。しかめっ面でしばらくキーを叩く。
「差し引きで二五万浮く。九ミリ、高いから。それでいいかな」
「結構です」
〈葬儀屋〉がウエストポーチから札束を取り出して数え、竹彦に渡す。竹彦が数えると、使い古しの一万円札で二五枚あった。ざっと見たところ、連番はない。いつもの通りだった。
 竹彦が代金を懐に入れたとき、荷台前面の壁に取り付けられている小さなスピーカーから若い男の声がした。
「つけられてます。三台挟んで四台目の白い乗用車」

 スピーカーからの声に動揺はない。声は、このバンの運転手のものだろうか。あるいは別にバックアップが存在していて、そこからの無線なのかもしれない。無線は盗聴の可能性がどうしても出てくるので、たぶん、前部座席からの有線だと思われた。
〈葬儀屋〉が、荷台の最後部に移動し、直径一センチほどの覗き窓のカバーを開ける。
「竹さん、ヘタ打ったと思うか」
 覗き窓に張りついたまま、〈葬儀屋〉が竹彦に問う。
「思いません」
「こっちの客か」
「いや、俺のほうかも。俺があなたに連絡する機会をずっと待ってたのかもしれない。もし俺が俺を狙うんなら、まずそのプランでいきます」
「失礼なこと言うなよ」
「ジャンパー、前閉めていいですか」
「いいよ」
 断ってからでないと、その動作を何か勘違いされるかもしれない。尻の下あたりに何か殺人的な仕掛けがあった場合、どこかにあるかもしれない小さなスイッチひとひねりでお終いだ。
 竹彦がゆっくりとジャンパーのファスナーを顎まで上げた。ジャケットは軽い防弾防刃仕様になっている。今までずっと〈葬儀屋〉にも気づかれなかったほどの尾行者チームの一部が、今、突然姿を現したということは、これからすぐに荒事になる可能性は高いと見ていい。準備はしておくべきだ。
「二二の弾、今、ありますか」
「あるよ。二〇〇〇円」
「中古の二二口径リボルバーと、弾五発」
「三〇万。ローダーに予備五発だと合計三五万」
「ローダーももらいます」
〈葬儀屋〉が覗き窓から離れ、竹彦に、覗いてみるようにうながす。竹彦が小さな窓を覗き込むと、確かに、四台後ろに白い車があった。暗いので、運転手の顔は見えないし、何人乗っているのかも分からない。これ以上見ていてもしかたがないので、竹彦は窓から離れた。
「何人乗ってるか分かりますか」
「分かるか、加藤」
〈葬儀屋〉が問うと、スピーカーから返事があった。固有名詞を使ったのは、問いかけた対象が複数か単数か、竹彦に分からなくするためだ。ここで固有名詞を使っていなければ、尾行を目視している人物がただひとりだ、いうことが竹彦に分かってしまう。〈葬儀屋〉のこの病的なまでのセンスを竹彦は気に入っている。
「目視できるのはひとりです。男。短髪。身長一七〇センチ前後。痩せ型。水色の長袖シャツ」
「プロか」
「ええ。雰囲気が臭い。よく訓練されている感じがします」
〈葬儀屋〉が、たった今竹彦から買い取った二二口径のうち一丁を手に取り、竹彦に手渡す。そしてバンの中に置いてある工具入れから弾を一〇発取り出し、短い蓮根状の高速装填具ひとつと一緒に竹彦に渡した。竹彦は、ジーンズのポケットから出した一〇万をさっきの二五万に足し、合計三五万にして〈葬儀屋〉に渡す。
 札の枚数をきっちり確認した〈葬儀屋〉が、すぐにまた覗き窓に張りつく。
「竹さんが俺から何か買うの、初めてだ。手袋もサービスしとくよ」
「どうも」
 竹彦はさっきの紙袋から出した防刃手袋をはめ、二二口径とスピードローダーに弾を詰めた。合計で一〇発になる。
「もっと重いの要るんじゃないの。二二なんて豆鉄砲だ」
「こっちのペースじゃないから。まともにやり合ったら危ない。それに、もしかすると、連中、あなたに用があるのかも」
「なるほど」
「次に左折するまでどのぐらいありますか」
「予定では、あと三キロ弱。もうすぐだ」
「曲がったところで飛び降りたいのですが」
「いいよ。直前で合図する。……あッ、消えた。右折しやがった。バックアップ居るのかな」
「何にせよ嫌な感じですね。保険かけときませんか」
「乗った」
「二日後の夜九時に携帯に連絡ください。もし連絡がつかなかった場合には嵯峨さんのほうに状況を説明しておいてもらえますか」
「OK。その時間に俺から連絡が無かったら、それから二時間以内に留守電に吹き込んでおいて。連絡時間コードのところを〇四六に。あと、竹さんのコード以外は適当に」
「〇四六。そんなコード知りませんが」
「ああ、それは『最重要即時連絡』の日替わりコード。約二分以内に誰かが竹さんの携帯に連絡することになる。そいつに簡単に状況説明しておいてもらえるかな」
「いいです。それで行きましょう」
「業務連絡コードの存在は内緒にな」
「ええ。でも、どうせ時間区切りでランダムに決めてるんでしょ」
〈葬儀屋〉がにやりと笑う。
「相変わらず切れるね。親父さんそっくりだ」
 ジャンパーをたくし上げた竹彦が、安全装置をかけた二二口径をベルトの背に差す。再びジャンパーを下ろし、外から見えないようにした。ドアに手をかけ、待機する。
「どこを走ってるか分かるかい、竹さん」
「一九号を北進中。曲がるのは庄内川の前あたりですか」
 即答した竹彦はさっき覗いた窓からの風景を思い出す。
「そうだ。もうすぐ。ふたつ目の信号」
 幸い、数百メートルほど東にJRの駅がある。時間はまだ夜九時を少しまわったところだ。JRまで走ってもいいし、どこかで自転車を盗んでそのまま逃げてもいい。バイクもしくは車を盗むには、今のところ時間が足りない。竹彦の主宅は、ここからバイクで三〇分ほどのところにあるが、もちろん、直行することはできない。完全に尾行がついていないことを確認した上で、今晩はどこかで一泊しなくてはならない。今住んでいる主宅は、あらゆる策をめぐらせて手に入れた完全に安全なねぐらだからだ。絶対に誰にも場所を知られていない、と竹彦は確信していた。垢をつけるわけにはいかない。
 左折するポイントが近づいた。
「加藤、秒でタイミング」
「はい。八……七……六……」
「後ろ三台とも直進」
〈葬儀屋〉が竹彦に教える。
「四……三……」
 竹彦がドアをスライドさせ、一〇センチほど開ける。〈葬儀屋〉が素早く竹彦のそばに寄る。
「二……一」
 バンが左折する。竹彦の記憶によれば、歩道のない小さな道路に入るはずだ。隙間から外を覗く。人はいない。ドアを大きく開ける。
 竹彦が飛び降り、同時に、〈葬儀屋〉がドアを閉めた。

 竹彦は何事もなかったかのように路肩に降り立った。左折する際、車は充分に減速している。転がって受け身を取ったりする必要はない。そのまま平然と歩きだす。〈葬儀屋〉のバンはすぐに先まで行ってしまい、見えなくなった。これから彼らは、尾行を切る複雑な作業にとりかかるはずだ。数時間は、一切の連絡がとれなくなると見ていい。
 尾行者が目標にしていたのが〈葬儀屋〉か竹彦か、という点は、まだこの時点では判別できないし、どちらかだと決めつけるのは危険でもあった。あくまで狙われているのは自分である、という仮定の上で竹彦は行動を開始した。
 暗く狭い路地を真っ直ぐに数十秒歩いたところで、覚悟した竹彦は立ち止まり、煙草に火をつけた。鋭い緊張感が背筋を走る。それを表には決して出さずに、竹彦は大きく煙を吸い込み、吐き出した。
 もし狙撃される予定だったのなら、今がまさにその瞬間だった。
 ゆっくりと振り向く。視界に人はいない。竹彦は、緊張のレベルをやや落とした。今さっきのタイミングに相手が合わせてきたのなら、それはもう個人では手の打ちようがない大がかりなセッティングが施されているということで、助かる見込みは最初からほとんどゼロだった、ということだ。そうではなかったということは、裏を返せば、少なくとも竹彦自身の意志でなんとかできる余地が多少でも存在する、ということでもある。
 竹彦は路地をもう少し先に進み、何度か角を曲がった。歩き続けながら考える。
 JRの駅まで引き返してから列車でできるだけ移動し、適当なビジネスホテルで偽名を使って一泊すると見せかける。夜のうちにそこを抜け出し、原付を盗む。尾行を完全に切ったと確信したら、駅やバス停から充分に離れた場所で原付を放棄し、タクシーを数台乗り継ぎ、どこかの公園で死角となっているポイントで朝まで過ごす。寒いが、凍死するほどではないだろう。朝になったら、列車かバスで主宅まで戻ればいい。
 ただ、これに似たようなことを竹彦は以前試みたことがあった。そのときはどうやら成功したらしいが、もし相手が前回のそれを踏まえて今回の対策を打っていたら、と考えると、できるだけ違うスタイルを使ったほうが賢明なように思えた。
 次の手として、今すぐに自転車を盗んで、できるだけ走り続け、尾行を切ったところでまた次を考える、という方法もある。ただ、この時間にこのやり方だと、呼び止められて職務質問を受ける可能性も少なくない。腰の拳銃や懐の小型ワイヤー切断具等を別にしても、警官と接触するのは避けたかった。携帯している偽造免許証の住所欄は、主宅から離れた場所にしてある。警官は、意外と勘がいい。トラブルになったとき、相手を殺すのは簡単だが、話が大きくなりすぎるし、だいいち、仕事と無関係の人間を殺傷することに対して竹彦は抵抗を持っていた。
 今、この瞬間、竹彦自身に監視がついているか否か、というのも重要な問題だ。
 あの角で降りるということが相手に分かっていたのか否か。尾行が姿を見せたのは故意で、そこで尾行を匂わせれば、この地点で竹彦が下車する、と読んでいたのか。ほんとうに最悪の場合、そこまではあり得るだろう。だとすると、今この瞬間も監視はついている。その人物の姿を確認する必要がある。
 そう考えると、確実に尾行者の目視ができるJR経由の計画のほうがメリットが大きいように思えた。列車に乗る際、自分と同じ車両に乗り込んだ人物全員の姿を記憶すればいいのだ。列車の場合、どこで降りるのか分からない以上、最低でもひとりは確実に竹彦の姿を確認できる位置にいなければならない。そうしないのであれば、後はヘリを飛ばすか、既にJRの国内全ての駅に監視を配置しているか、ぐらいしか尾行の方法がない。両方ともほとんど可能性はない、と判断していいだろう。ヘリはともかく、全国のJRの駅そのものを全て継続的に監視するのはコストがかかりすぎる。また、夜にヘリは大袈裟すぎるので、それだけの財力があってもたぶん使ってこないだろう。
 竹彦は、駅に向かうことにした。
 そう決断して、路地裏から真っ直ぐ南に歩いていると、大きめの道路に出た。そこを左折して東に進む。車がまばらに通過する以外、人通りはない。一〇〇メートルほど先の信号が一九号を横断するための信号だ。このまま国道を横断して何百メートルか歩き、右折してしばらくすると駅に着く。駅の時刻表は暗記していないので、発車時間は分からない。できれば発車ぎりぎりで乗り込みたかった。携帯から番号案内にかけて、駅の電話番号を聞き、駅に次の発車時刻を直接確かめる、という手段はある。ただ、相手に携帯が盗聴されていた場合、数分か数十秒の先手を打たれてしまう。また、番号案内にかけてまで発車時刻を確認するという行為そのものによって、竹彦がまだ尾行を警戒している、ということが相手にはっきりと伝わってしまうのも問題がある。もう安心だと思っているかもしれない、という曖昧な部分は残しておいたほうが有利だ。その曖昧さを利用して尾行を切ることができるような局面に今後ならないとも限らない。
 吸っていた煙草を携帯灰皿に入れ、両手をジャンパーのポケットに入れる。その手は何か武器を握っているかもしれないし、あるいは安心してリラックスしきっているだけなのかもしれない。相手にはどちらなのだか分からない。そういう情報の曖昧さが有利に働くこともあるのだ。それは竹彦が師から教えてもらった大事なことだった。
 目前の信号が青から黄色になった。小走りでは間に合わない。全速で走ればなんとかなるが、もちろん、そんなことはしない。竹彦は信号で止まった。
 竹彦が立っている側の歩道の角に、呑み屋のチェーン店があった。それほど人通りのある場所ではないので、繁盛こそしていないが、夜には駐車場に車が何台かいつも停まっている店だ。その呑み屋の自動ドアが開いた。竹彦の左側、数メートルの場所だ。なにげなく、竹彦がそちらをうかがう。背広を着た会社勤め風の男たちが、笑い合いながら四人出てきた。うちひとりはかなり酔っているようで、足取りがふらふらだった。残り三人もかなりの上機嫌のように見てとれる。その四人が竹彦のほうに近づいてきた。竹彦は前方の信号に目を移した。当然、横目で男四人を警戒している。男たちも竹彦と同じ信号を渡るようだった。仕事が終わって、一杯呑んで、JRで帰る、というところなのかもしれない。少し離れてはいるが、それでも酒臭い息は確実に竹彦のところまで届いてきた。
 いちばん酔っている男が、電柱の根っこにかなり派手にげろを吐いた。もうひとりがその男の背中をさすっている。
 突然、パン、と、乾いた音が竹彦の右前方の交差点でした。
 竹彦が音の方を向く。
 右折しようとした軽自動車が、後ろからきた乗用車に追突されていた。軽が数メートルは吹き飛ばされている。
 竹彦は左のふとももの外側に痛みを感じた。同時に、圧縮されていた気体が放出される短い音がする。しまった、と思ったときには既に遅かった。男が何か注射器状のものを竹彦の足に突きたてている。さっき吐いていた男だった。充分に距離を離していたつもりだったのが、事故に反応したその一瞬に間合いを詰められていた。事故は、故意に違いなかった。
 殺るか。瞬時に竹彦の思考が圧縮された。時間がスローになる。
 どんな薬物にせよ、注入された箇所がふとももなら、何かが起きるまで少なくとも一秒弱の時間がある。それだけあれば、腰の銃を抜いてから四人とも射殺するのに充分だ。
 竹彦は、アクションを起こしかけ、寸前で思い止まった。現状では、このレベルのセッティングには対抗できない可能性が高い。使われたのが致死性の薬物なら、もう手の打ちようがない。逆に、死に至らない薬物であった場合、こちら側のバックアップも存在しないような現状で抵抗するのはかえって危険と言える。
 意識が消える直前、竹彦は会社勤め風の男ふたりに両脇を抱かれた。彼らの酒臭い息が竹彦の鼻に残った。

 サウナの温度は、いつもより高いような気がした。一〇人も入れば一杯になるぐらいの小さなサウナ風呂で、今のところ嵯峨の他に客は入っていない。壁に埋め込まれた二五型テレビでは若手お笑い芸人が激辛料理を食べさせられて悶絶するシーンが放映されている。音量がゼロに絞ってあるので画だけを嵯峨はぼんやり観ている。つまらない深夜番組だ。だが、頭をからっぽにするには、いい。
 嵯峨は、もう三時間近くこのサウナに入り続けている。入ったまま、中から一歩も外に出ていなかった。
 最初の一時間は、頻繁に人の出入りがあった。みんな、一〇分ほどで出てゆく。何人かは外で水を浴びてもういちど入ってくるが、やはりそれから一〇分ほどで出てゆく。顔を知っている女も何人かいた。向こうも嵯峨の顔を知っているだろう。無論、会話を交わしたことはない。
 深夜三時をまわってからは、ほとんど客は入ってきていない。
 たいていの客はバスタオルで胸から下を隠しているが、嵯峨はそんなことはしない。股間の上に申し訳程度にタオルを置き、座って後ろに両手をつき、だらしなく両足を広げている。胸は隠さない。べつに、自分のバストに自信がある、ということではない。とにかくめんどう臭いのだ。
 そんな嵯峨の格好を見て、初めて顔を合わせる客は、たいてい、ぎょっとする。ちらりと一瞥をくれて、後は無視するかのように、けっして視線を合わせてこようとしない。それでも横目でちらちらとこちらのほうを見ているのが嵯峨には分かる。自分と同年代ぐらいの女の視線が特にじんわりとした痛覚を与えてくる。直視されているわけではないので、刺すような不快感は感じない。無視できるレベルだった。
 嵯峨は、だいぶ前、こことは別のサウナで、いちどだけ自分と同じくアーティストと思われる女と遭遇したことがあった。五〇近い女だった。そのときは、一瞬、視線が交差してしまい、お互いに目が離せなくなる寸前で危うく目を伏せることができた。冷や汗がどっと出た。相手も同じだったろう。数分、何事も無かったかのようにふたりともサウナに入っていたが、嵯峨のほうからたまらずに外に出た。たっぷり冷や汗をかいていた。うっかり至近距離で遭遇してしまった猛獣もたぶんこんな気持ちになるのだろう。若いアーティストにはパワーがあるが、歳をとったアーティストにはテクニックがある。五〇近くまで生き延びたアーティストなのだから、万が一、一戦交えた場合、おそらく互角とみていい。
 嫌な予感を嵯峨は感じた。
 さっきから四〇分以上、誰もこのサウナに入ってきていない。深夜とはいえ、四〇分というのはおかしい。何か妙な偶然が働いている。
 あるいは、何者かが何か仕掛けてきているか、だ。
 まったく自然なふうを装い、嵯峨は立ち上がった。ドアを開け、外に出る。湿っているはずの風呂場の空気すら、ひんやりと心地よく感じられた。シャワーの前に腰掛け、水を浴びる。身体じゅうの汗を丁寧に流し落とした。腰まである黒髪もシャンプーを使って念入りに洗う。これで、二〇時間ほど前の仕事での相手の血液が、万が一身体に付着してしまっていたにしても全て洗い流せただろう。禊、という意味もある儀式だ。サウナで三時間かけて頭の中をからっぽにし、その後、身体を洗い清める。いつもの儀式だった。
 髪を洗いながら意識を拡張し、嵯峨そのものを薄く風呂場全体に満たした。今のところ誰もいない。嵯峨が座っている背後の壁の下隅に小さななめくじが這っているだけだった。目視はしていない。ただ感じるだけだ。他に生物はいない。このサウナは特別な場所なので、ここで仕掛けてくる阿呆はいないはずだ。しかし今回だけは特別に何か妙な予感がした。アーティストならば、その感覚を大事にしてゆかねば生き延びることができない。
 二〇分ほどかけて身体と髪を洗った。相変わらず誰も来ない。
 風呂場を出て脱衣場にゆく。電子体重計があるので、いつものようにそれに乗る。仕掛けられているかそうでないのか分からない以上、なるべく普段どおりの行動をとるべきだ。警戒しているのか、警戒していないのか、相手に分からないよう、情報は極力曖昧にしておかなければならない。体重計に足をかけた瞬間、爆発でもするのではないか、という思考が一瞬走った。それを無視する。五三・三キログラム。嵯峨のベストコンディションを八〇〇グラムほど下回っていた。汗をかいたせいだ。
 髪をドライヤーで乾かしてから、ロッカーを開け、普段どおりに着替える。誰も来ない。嫌な予感が継続している。
 下着と白のTシャツを身につけ、ジーンズを履く。黒の革ジャンを羽織り、ポケットの中に入っている物の重さを感じたとき、嵯峨は初めてほっとした。
 階段を降りてフロントに行き、タオルとロッカーの鍵を返す。フロントの女が、二つ折りの紙片を黙って差し出した。嵯峨は黙ってそれを受け取り、ポケットに入れようとした。
 フロントの女が口を開いた。
「『至急』、とのことですが」
 このサウナのフロントが「至急」と言ったのなら、それは、言葉通り、完全なる大至急、ということだった。嵯峨はその場で即座に紙を開いた。普段通りの行動がここで途切れた。
 メッセージは、〈葬儀屋〉からのものだった。竹彦がよく利用する故買屋だ。超一流、と言っていい。嵯峨も何度か顔を合わせたことがある。
 メモには、コードを使って時間が表記されている。その時間に、このフロントに電話を入れる、とある。嵯峨の携帯ではなく、このフロント、というところに、非常事態を感じた。携帯は盗聴できる。このフロントの電話は、まず盗聴できないと考えていい。
 嵯峨は紙片をポケットに入れた。後で時間があいたときに焼却しなければならない。
「相手は間違いないか」
「はい。いつもの手順で確認済です」
 嵯峨が自分の腕のデジタル時計を見る。連絡まであと一六秒だった。タイミングが合いすぎている。何かが起きている証拠だった。やはり、何か嫌な事態が起きている。フロントに背を向け、電話を待つ。
 もはや、普段通りの行動を装う必要はない。右手は革ジャンのポケットの中の物に触れている。嵯峨が再び意識を拡張した。天井の通風口には、人間はいない。目の前のエレベーターも、動く様子がない。あとは、非常階段だ。こちらも、今のところ大丈夫のようだった。二階下の地上三階までしか分からないが、とりあえずのところその範囲に人間はいない。
 そこまで確認したとき、フロントの電話が鋭く鳴った。

 フロントの女が電話を取った。そのまま嵯峨に渡す。嵯峨はフロントに背を向けたまま左手で受話器を受け取り、耳から五センチほど離して相手の声を待った。
「初めて会ったときの俺のシャツの色」
 受話器からの音声は雑音がひどかった。
「青。最後に取り引きしたものは」
 その嵯峨の問いに電話の相手が答えるまで、若干の時間があいた。
「二〇代の女。髪が全部剃られ、両方の瞼が切り取られてた。剥がされた爪は四本。そのうち足の爪は二本。死因は溺死」
「うん。ひさしぶり」
 嵯峨が受話器を耳に当てた。雑音の中、いろいろな音が耳に入ってくる。電話が繋がった先の空間が、回線を通じてビジョンとしてぼんやりと嵯峨の頭に浮かんできた。相手は確かに〈葬儀屋〉だった。左頬を負傷している。発声のしかたで分かる。そして、彼は死に向かいつつある、というのもすぐに分かった。腹部をひどく負傷しているらしい。
 車のクラクションが絶え間なく聞こえる。食器の音も聞こえる。どこかの通りに面した食堂だった。なにか、全体に熱気が伝わってくる。
 日本では、ない。どこか、アジアの国だ。
「竹さんから最後に連絡があったのは」
「だいたい一三日前。直で会った」
「そうか。一〇四時間ぐらい前、竹さんがまずいことになったらしい。たぶん、あんたも危ない」
「分かった。ありがとう」
 嵯峨が即座に受話器を置こうとする。頭の中では、既に、事実の確認作業の手順と同時に、潜るためのプランを立て始めている。
「待った、待った。まだ話がある」
 国際電話のタイムラグのせいで、嵯峨が手を止めたのは受話器を置く寸前だった。ふたたび、耳に受話器を戻す。
「悪いけど手短に」
「分かってる。今から言う住所を記憶してくれ」
〈葬儀屋〉が住所を告げた。青森県だった。嵯峨がそれを暗記する。
「記憶した」
「復唱したほうがいい」
「それ、どういう意味なのか分かってるのか」
「ああ。全部分かってる。頼むから復唱して確認してくれ。安心して眠れない」
 嵯峨がフロントの女のほうに身体を向け直す。女は黙ってそこに立っている。たとえどんな事態になってもその場所からは動かないだろう。そういう仕事なのだ。
 嵯峨は、電話回線の向こうの〈葬儀屋〉の身体にさらに強い死の匂いを感じた。やはり彼は死にかけていた。二時間以内に高度な治療を受けて、生存率は六割程度、と嵯峨は読み取った。
「分かった」
 嵯峨が住所を復唱する。フロントの女は眉ひとつ動かさない。
「OK。今川公園のトイレの洗面台、いちばん左の排水管の中に、その住所の鍵がある。安全は自分で確認してくれ。鍵をまわしてからドアを開けるまで一〇秒以上待つこと。待たないとたぶん死ぬ。中の物は全部あんたに譲る」
「そうか。ありがとう」
「もうひとつ。俺のほうの相手のうちひとりが〈ガン・スモーク〉だった」
「目視したのか」
「ああ。初めて見た。噂通りだった。俺のほうは、俺の他は全員殺られた。で、慌てて飛んだ」
〈葬儀屋〉が〈ガン・スモーク〉と一戦交えた上で、生き延びた、という事実に、嵯峨は素直に驚愕した。〈葬儀屋〉は超一流だがアーティストではない。普通の人間がアーティストと闘って無事逃げ延びるなどということは滅多にあることではない。あるいは、〈ガン・スモーク〉に〈葬儀屋〉を殺す意志が無かったか、だ。
「ひとつ聞いていいか」
「ああ」
「おまえ、わたしに惚れてたのか」
「うるせえ」
 電話が切られた。
 これから先、〈葬儀屋〉と会うことはあるのだろうか、と嵯峨は思った。五分五分だろう。〈葬儀屋〉の持っていたシステムも壊滅したと考えたほうがいい。しかし、彼なら、今の状況でも生き延びるような気もした。数年もすれば会えるかもしれない。その時には一緒に寝てやろう、と嵯峨は決めた。
 嵯峨がフロントの女に受話器を手渡した。女が電話を置く。
「すまん」
 嵯峨が言う。
「いいえ。仕事ですから」
「何かできることはあるか」
「三つ。いいですか」
「いいよ。どんなことでも」
「もしよろしければ、今から言う口座にお金を振り込んでください」
 女が口座の名を告げた。
「分かった。いくら」
「いくらでも」
「ふたつめは」
「ポケットの中のものを見せていただけますか」
「いいよ」
 嵯峨はあっさりそういうと、革ジャンのポケットからその物を出し、フロントの女に見せた。女の目が、ほんの少しだけ大きくなった。僅かでもこの女の表情が変わったところを、嵯峨は初めて見た。
「これ、触ってもいいですか」
「もちろん」
 嵯峨がそれを女に手渡す。裏返したり、斜めにしてみたり、じっくり見たあと、女はそれを嵯峨に返した。嵯峨はふたたびそれをポケットに入れた。
「面白いですね。ほんとうに面白い」
「ありがとう。三つめは」
「キスしてください」
 嵯峨と女が口づけを交わした。

 フロントの女を殺害した後、街が目覚めるまで嵯峨は数時間歩き続けた。そして雑貨屋でレンチを買い、〈葬儀屋〉が言った通り今川公園のトイレで鍵を入手した。主宅にいちども戻ることなく、帽子屋でつばの広い帽子を買い、コンビニで安いサングラスを買い、そのまま銀行に向かった。銀行の数百メートル前で帽子を深く被り、サングラスをかけると、意識的に猫背にして歩いた。銀行に入り、今持っている口座のひとつからキャッシュカードで二〇〇万円をおろし、残りの約二八〇〇万円全てをフロントの女が告げた口座に振り込んだ。銀行内ではずっと猫背を続けていた。それだけで、印象が違う。銀行を出た後、使ったカードは三つに切断し、それぞれ充分に離れた場所にある街角の屑入れに捨てていった。サングラスも屑入れに捨てた。
 最後に、ふと通り掛かったマンションの前に鎮座していたライオンのブロンズ像の頭に帽子をそっと被せ、嵯峨は消えた。

 主宅に帰った赤坂は、激怒していた。とんでもないクソ仕事をつかまされた。あるいはハメられたのかもしれない。生理中なので余計にむかついた。
 どうにかむかつきを抑えて、ワンルームアパートのドアを静かに閉めた。部屋の明かりをつけた直後、目にはいった足元の黒い丸テーブルを思い切り蹴飛ばしてやりたくなったが、それも我慢した。静かに、静かに、いつも通りに、冷静に。こうなってしまった以上、既にこの部屋は盗聴されていると仮定して行動する。確かに自分は二流のアーティストかもしれない。だが、三流以下ではない。まだ生きていることがその証拠だ。そう信じ込むことにする。
 じっさい、現状でここに盗聴器が仕掛けられている可能性はどのぐらいあるだろう、と考え、まず百パーセントに近いはずだ、と赤坂は判断した。今日の昼までは、そんなはずではなかった。今では状況が違う。下手をすると小型カメラもセットされているかもしれない。エアコンの送風口を調べたいという欲求を押さえつける。テレビと小型オーディオのスピーカーもチェックしたくなったが、かなりの精神力で我慢した。
 あのプロデューサーは、わたしを使い捨ての三流だと思って、この仕事を振った。それならこのまま三流のふりをしていてやる。赤坂はそう決めた。選択の余地はない。自分の総合的な実力では、プロデューサークラスの人間を消すことはできない。こうなった以上、タイミングを見て完全に消えるしかない。それでも成功率は低い。
 部屋着に着替え、テレビを見ているふりをしながら、赤坂は考えた。
 この職業は、性にあっているように思っていた。きっちり計画をたてて、対象を殺す。計画を立てるのも殺すのも、楽しくもない代わりに特に苦にも感じなかった。証券会社でOLをやっていたときのほうがよほど苦痛が多かった。
 殺すだけではなく、殺すか殺されるかもいちど経験した。その経験で自分の戦闘力が意外に高いことを発見した。仕事に自信が持てるようになったのはそれからだ。あっさりと相手の肘の動脈をカットできたあの瞬間、自分がアーティストとして少なくとも並の戦闘力を持っていることを確信できた。そのおかげで実行前のセッティングの幅も増えた。
 動かせる金は、まだ一八〇〇万弱しかない。四年かけて今の仕事で貯めた金だ。一億貯めたら引退するつもりだった。その日がきたときに、うまく消えるための手順も、だいたい考えてあった。それなのに、と思うと、また腹が立ってきた。
 今日の昼、プロデューサーの喜八郎が公園のベンチでこう言った。
「今回は、ギャラ、かなりいいよ」
「いくらですか」
「一五〇〇万。ただし経費込み。いつもと同じく、資料見たらキャンセルできないからそのつもりで」
 そう言って喜八郎はA5サイズの茶色い封筒を赤坂に差し出した。
 一五〇〇万は大金だ。指定暴力団のトップを暗殺して、そのぐらいだろう、という話を赤坂は以前聞いたことがあった。
「喜八郎さんは、今回のこれ、わたしにできる仕事だと思いますか」
 赤坂は、まだ喜八郎の手にある封筒を目で指し示した。
「もちろん。そう思ったから君に振る」
 喜八郎のプロデュースを赤坂は今までに四回受けていた。どの仕事も、嘘がなく、喜八郎に対して赤坂は実直な印象を持っていた。見た目、部長クラスの普通のサラリーマンと変わらない人の良さそうなおじさんだ。
「受けます。資料を」
「今、ざっと見た方がいい」
 そう言われたので赤坂は封を切って中身を見た。喜八郎は、赤坂が資料を目にする現場を自分の目で確認した。そこが分岐点だった。今思えばあまりにもうかつだった。そこが分岐点だったのだ。
 赤坂は資料を途中まで読んだ。相手はかなり有名な大物の政治家だった。テレビでもよく目にする。そのことに対して、そのときはまだなんとも思わなかった。そういう仕事も回ってくるだろう、という程度の感想だった。それよりも、実行可能かどうかだけ反射的に考えてみて、まず大丈夫だろう、という感覚を得た。しかし何か違和感があった。赤坂は違和感について考えをめぐらせた。
 そこで、クソをつかまされたということを赤坂は電撃的に理解した。
 それが分かった瞬間の動揺は、表にあらわれただろうか、と赤坂はちらりと思った。いや、大丈夫だ。それなら、このまま三流のふりをするべきだ、と赤坂は気づいた。既に資料を目にしてしまっている。今取れる行動は、これしかない。阿呆のふりをする。
 確かに、喜八郎は嘘をついてはいない。赤坂なら、この人物の暗殺は充分に実行可能だ。
 ただし、事後に間違いなく、赤坂も消される。
 二次暗殺だ。対象があまりにもメジャーすぎる。
 実行後、まったく事情を知らない別のアーティストが、赤坂を消す。その二次暗殺者は、赤坂が何故消されるのか、一切の事情を知らない。そういう基本的なセッティングだ。それで痕跡は消える。
「面白そうですね」
 声が震えないように気をつけながら赤坂が言った。
「うん。そろそろこういう仕事もいいか、と思ってね」
 喜八郎は微笑んだ。
 このクソオヤジ、いつか殺してやる、と赤坂は決めた。

 喜八郎の仕事を受けてから五日間、赤坂はまったく普段どおりの生活を続けた。仕事の期限は八週間後だ。今まで、仕事を受けてから何日かは、いつもぶらぶらすることにしていた。その習慣を変えると、変に怪しまれるかもしれない、と赤坂は判断した。
 図書館、フィットネスクラブ、近所のスーパー、近所の喫茶店、それに加えて、映画も観に行ってみた。そこで判ったのは、確実に喜八郎になめられている、ということだった。その点だけは確かにありがたい要素と言えた。喜八郎は赤坂を過小評価している。少なくとも赤坂本人は現状をそう判定した。
 この五日間で、尾行がふたりしかつけられていないことを赤坂は確認できた。ふたりでワンセットの尾行者は練度が並だったので、最初の一日ですぐに判別できた。そこで翌日、相手の人数を確認するため、フィットネスクラブから映画館に移動する際にきわどいタイミングでJRに乗った。もちろん、時刻表はこのために事前に調べてあり、慌てて乗ったのは故意だ。どこに行くか相手に分からない状況で、相手に時間的余裕を一切与えずに列車に乗る。案の定、ひとりは同じ車両に乗った。降りるとき、その男が上着のポケットに手を入れるのが見えた。何らかの通信機器で符牒を使い、別の車両に乗っている相方に連絡したのだろう。降りてから映画館まで、尾行がまたふたりになった。基本通り、ひとりは反対側の歩道だ。劇場で約二時間過ごし、ふたたび駅に向かうと第一尾行と第二尾行とが入れ替わっていた。もし第三尾行がいるなら、そちらが第一尾行と入れ替わるべきタイミングだった。三人以上のセットであれば、赤坂ならそう組むし、普通のディレクターも同様の組み方をするだろう。危険性とコストとを天秤にかけてみると、常識的にだいたいそういう手順に落ち着くのだ。
 総合して考えると、訓練度が並の尾行者二名が常についている、という結論が出た。
 五日目の今日になっても、その結論は正しいように思えた。
 これは、消えるかどうかの分岐点だった。今なら、確実にできる。ほぼ同時にふたり消せるように状況をセットし、直後、即座に銀行で全預金を一旦国外に飛ばす。彼らの定時報告が最悪一時間毎の高頻度だと仮定してもこちらに三〇分程度の時間はあるだろう。飛ばしたら、すぐ消える。金は後で外国で慎重に引き出せばいい。
 殺害の場所と銀行の場所を何通りか考えながら、早朝のフィットネスクラブで二〇分ほどの腹筋運動をした。毎回、メニューの最後にする運動だ。クラブには毎日行くわけではないので、行く毎に腹筋に負荷をかけるぐらいでもちょうどいい。
 スポーツタオルで汗をぬぐいながら、赤坂は腹筋台から降りた。
 小さなクラブなので、この時間だとあまりひとは居ない。赤坂ひとりしかいないことも多い。今日は、もうひとり、少し離れたところで髪の長い女が軽く柔軟をしているだけだった。赤坂が腹筋を開始してから一〇分ぐらいして入ってきた女だ。初めて見る顔だった。
 シャワー室に行こうと女の後ろを通ったとき、その女が伸ばした身体をさらに横にストレッチしながら言った。
「いくらなんでも、ずいぶんと甘く見られていたみたいだな」
 赤坂の足が止まり、反射的に一歩引いて間合いを空けた。
 女は、軽く、とん、とん、とその場で二度跳んでから赤坂のほうを振り向いた。
「あれでは一対二でもストレッチの代わりにもならない。女はいろいろな意味で甘く見られる。ただし我々のような仕事の場合、それは利点だ」
 その女は率直に言ってかなりの美人だった。スタイルもかなりいい。女が赤坂の眼を見つめた。
「わたしが何の話をしているか。話の意味がわかるかわからないか、イエスかノーかで答えてほしい」
 赤坂は答えなかった。答える代わりに、演技のスイッチを入れた。赤坂は、何を言っているのかさっぱりわからないというかのように訝しげに目の前の女を見ると、シャワー室に向かった。ただし、首のスポーツタオルを外して軽く右手に持った。絞殺に使える武器となるからだ。女に背を向けたのは、一か八かだった。
「完璧な回答だ。度胸も座っている」
 女が言う。
 その言葉を無視してトレーニングルームを出た赤坂は、振り返って女がついてきていないことを確認すると足早にシャワー室の前を通り過ぎ、ロッカールームへ向かった。まずい。あの女がどういう人間かは知らない。ただ、じぶんのペースでないことだけは間違いない。仕切りなおす、あるいは逃げるべき局面だった。
 鍵つきのロッカーを開け、着替えの入っているボストンバッグを開いた。着替えたらすぐにここを出るつもりだった。
 バッグの中に、札束が詰まっていた。
 さすがに赤坂の思考がストップした。
「三千万ある」
 さっきの女がいつのまにか赤坂の後ろに立っていて、そう言った。赤坂はその女の気配をまったく感じなかった。それで、あきらめた。手の打ちようがない状況だと判断した。
「どういうことですか」
「あと七千万出す」
「それで」
「つまり、一億で雇いたい」
 恐ろしいほどの高報酬だった。仕事の内容も、それなりの難度のはずだ。だが、これは赤坂が決めていた引退のための条件を満たすことができる金額だった。これを最後の仕事にできる。
 そこまで考えて、現実の問題を赤坂は思い出した。思い出すまでは眼前の現金の効果で夢の中だった。急に現実に引き戻された。
「別の仕事を受けています。プロデューサーに話をつけてからにしてください」
「残念ながらもう彼と話はつけられない」
「消したのですか」
「心配しなくていい。全て片付けた。全て、だ」
 この女は本当のことを言っている、と赤坂は感じた。この女なら、ほんの数時間もあれば一切の痕跡を残すことなく喜八郎とそのシステムを消滅させることができるだろう、と、そう直観した。急に肩が軽くなった。同時に、頭が回転した。
「あとひとり消しておかないと問題になる可能性があると思います。しかしそれが誰かは判りません」
「いいセンスだ。見込んだだけのことはある」
「どうしますか」
「調べて消すだけだ」
 嵯峨は簡単にそう言った。

 二日後の深夜、ある宗教団体の会長の自宅が全焼した。焼け跡からは逃げ遅れたらしい当人の遺体が発見された。居間での煙草の不始末が失火の原因らしい、ということだった。

【つづく】

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